羽幌炭砿のあゆみ~Ⅴ.躍進期(昭和31年~36年)~

合理化が結実し、出炭量が悲願の100万㌧超えを達成 

昭和30(1955)年に入り、世の中は神武景気といわれた経済好況期を迎えた。加えて、昭和31(1956)年に勃発したスエズ動乱(第二次中東戦争)により石油はもとより海外炭の価格も急騰したことから、昭和30年下期から国内炭の需要が急速に回復し、貯炭量も大幅に減少した。しかし、昭和32(1957)年下期には神武景気も一服し、一転して鍋底景気といわれる低迷期に突入した。昭和34(1959)年からは他産業が岩戸景気を謳歌したにもかかわらず、石炭産業は斜陽化が進行する。

会社は昭和31(1956)年に第二次合理化五カ年計画を策定。生き残りをかけて合理化を推進していった。羽幌炭砿は順調に出炭量を伸ばし、昭和31年度の出炭量は54万㌧余りとなり、創業時には到底不可能と考えられていた50万㌧超えの金字塔を打ち立てた。当時、この数字は地方の大手炭鉱に迫る水準であった。

同年、町田専務が社長に就任。築別炭砿においては「大竪入」坑道と双璧をなす重要施設「ベルト斜 坑」が完成する。「ベルト斜坑」は左四片から「大竪入」の電車発着点である左零片までをつなぐ710mの主要延長坑道で、切羽から選炭工場までの連続運搬が可能となった。これにより1人当たりの年間出炭量は大手炭鉱平均の2倍近い32㌧を超え(終戦当時はわずか7㌧)、コストダウンによる価格競争力において他社を圧倒していく。

昭和32(1957)年、躍進を象徴する大慶事が実現した。高松宮殿下ご夫妻のご来山である。秋野武夫北海道スキー連盟会長らの懇請により「スキーの宮様」で名高い殿下ご夫婦のご来山が実現したもので、羽幌炭砿にとっては正に創業以来最大の栄誉というべき出来事であった。

それ以降は、羽幌炭砿にとって生産の面だけでなく、スポーツの面でも大飛躍を遂げた。冬季スポーツの華・純飛躍(ジャンプ)では日本中に「羽幌飛行隊」の名を馳せ、野球部は都市対抗野球大会(全国大会)に2度出場。バレーボール部も男女とも全国大会出場クラスの実力を誇るなど、各競技の活躍は目覚ましいものがあった。

一方で、石油需要の拡大と貯炭激増により中小炭鉱を中心に閉山が相次いだ。かつて羽幌炭砿の経営陣が「せめてなりたや大和田までに...」を合言葉とし、目標としていた留萌の大和田炭鉱までもが昭和34(1959)年12月に閉山となる。

当時、石炭企業は一斉に合理化に着手し人員整理に踏み切ったが、羽幌炭砿を除く全国の多くの労組はこれに激しく反発。昭和35(1960)年には三井三池炭鉱において113日ストが決行され、総資本対総労働の戦いと評される一大闘争(三池争議)にまで発展してしまう。

昭和34(1959)年、築別炭砿において三菱大夕張炭砿などでしか実施されていなかった「スライシング採炭」を開始し、約70%にとどまっていた炭層の実収率がほぼ100%になった。また曙変電所が完成し、北海道電力から受電を開始。さらに最先端技術を結集した築別炭砿の選炭工場・貯炭場(ホッパー)が完成。

昭和35(1960)年7月、築炭会館において会社創立20周年記念式典が挙行され、町田社長はその挨拶の中で、昭和25(1950)年の長期ストの際に従業員の強烈な愛山精神が勃興し今に続いていることを強調している。大手、中小を問わず非能率炭鉱の閉山が相次ぐ中、昭和36年度の出炭量が、ついに長年の夢であった100万㌧超えを達成。また、昭和36(1961)年9月には会社が札幌証券取引所に上場する。

羽幌炭砿のあゆみ Ⅵ.エネルギー革命との闘いと閉山

  • 炭壁を切削中の「スライシング採炭」の切羽(当時)
  • 高松宮殿下ご夫妻ご来山        (昭和32年7月22日)
  • スキー純飛躍(ジャンプ)(当時)

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