佐賀紡績(現・ダイワボウホールディングス) ①誕生から閉鎖まで

佐賀の近代化をけん引した佐賀紡績

肥前国鹿島藩の御殿女中に受け継がれた織物「佐賀錦」を生んだ九州・佐賀の地に紡績業を興し、佐賀の経済的繁栄を期待して福田慶四郎始め地元有志によって計画され、鈴木商店の参画を得て大正5(1916)年、佐賀紡績が誕生した。

佐賀の地は紡績業を営むのに4つの利点があると云われた。すなわち、(1)地価が安く、広大な土地を確保できること(2)(工女の技巧はやや劣るが、忠実かつ勤勉で)職工の労賃が安く、募集が容易なこと(3)(鉄道があり)交通・運輸が便利なこと(4)(石炭や電力があり)動力の供給が容易なことが挙げられていた。このように紡績業の立地条件に恵まれ、鈴木商店としても大里製粉所で用いるメリケン粉袋の自給の必要性から地元の誘致に応じたもの。鈴木商店は当時、佐賀~久留米間で計画されていた「肥筑軌道」の設立にも関与していたことが引き金となった。

開業時の経営陣は、長崎出身で国際汽船の役員でもあり、佐賀紡績の大株主の橋本喜造を社長に迎え、鈴木商店から 専務・井田亦吉のほか取締役、監査役にも鈴木幹部が名を連ね、相談役には当時の佐賀市長・野口能毅とともに鈴木商店・金子直吉が就任した。

操業に備え海外から調達した20,000錘紡績機、織機300台がドイツの潜水艦によって撃沈されたため、急きょ鈴木商店によりインド・ボンベイより英国製中古紡績機を一部手当てし、大正7(1918)年2月11日の開業式に間に合わせることができた。工場は順調に拡張し、大正8(1919)年には紡績機19,500錘、撚糸3,600錘、織機408台を備え、女工800名を超える規模に発展。株価も100円台を達成したと報じられた。

資本金は、創業時の300万円から500万円に増資し、文字通り佐賀を代表する企業に発展した。大正9(1920)年の生産設備は、紡績機32,248錘、撚糸6,480錘、織機408台の規模となったが、第一次世界大戦後の不況の長期化のため、大正13(1924)年工場閉鎖に追い込まれた。

折しも親会社・鈴木商店の経営悪化が表面化し、台湾銀行からの融資に赤信号が灯り、佐賀市への影響を懸念した野口能毅(佐賀紡績相談役・佐賀市長)は急きょ上阪して鐘紡社長・武藤山治と会見、佐賀紡績の委託経営を要請した。数度の交渉を重ねたが鐘紡による佐賀紡績の救済合併は不調に終わった。

これを受け佐賀紡績は、大正14(19259)年新株発行による財源確保しての操業再開を決めると、鈴木商店は系列の天満織物への委託経営を決定、支配人の交代(波多野恕吉から日本商業の篠原勇喜へ)により操業再開したが、昭和2(1927)年鈴木商店が破たんしたためこの構想は白紙に戻ってしまう。

"②錦華紡績を経て大和紡績が誕生"に続く

  • 福田慶四郎
  • 佐賀紡績(大正10(1921)年頃)
  • 事業中止を伝える新聞報道(大正13(1924)年8月3日付佐賀新聞)

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