播磨造船所の歴史⑤

金子直吉主導による日米船鉄交換契約の成立に伴い船鉄交換船を建造

第一次世界大戦が激しくなるにしたがって商船の消耗は甚だしく、特にドイツの潜水艦(Uボート)の出現により被害はますます拡大し、大正5(1916)年末までに連合国および中立国の喪失船舶は累計520万総トンに達した。大正6(1917)年4月、ついにアメリカが参戦し、数百万の兵員を欧州に輸送するため船腹の需要は激増した。同年7月、アメリカは欧州の造船国から商船の供給を受けることができなくなったため自力による大量の商船建造を決定し、2,700隻1,600万トンの新造船計画を発表した。

当時の日本は鉄鋼の生産が少なく、船舶の建造に使用する鉄材は欧米(当初はイギリスなど、後にイギリスが輸出を禁止するとアメリカ)からの輸入に頼っていたが大正6(1917)年8月2日、アメリカが突然わが国に対し鉄材輸出禁止令の発令を伝えてきた。この禁止令は、わが国の造船事業を即実行不可能にすることを意味していた。このためわが国の造船業界は恐慌を(きた)し、鋼材はトン当たり、5月ごろ500円であったものが1,000円に急騰するなど大きな衝撃が走った。

当時わが国がアメリカへ注文していた鉄材の全量は約46.3万トンといわれ、そのうち鈴木商店鉄材部の取扱量は11.6万トン(およそ25%)で最も多くを占めていた。また、鈴木商店を通じて鉄材を確保していた川崎造船所もストックボートを中心とする造船計画が完全に宙に浮くことになった。

このような状況を踏まえ、金子直吉は盟友とも言うべき川崎造船所社長・松方幸次郎(滞英中)らと緊密に連携をとり、神戸において民間造船関係業者(造船会社、海運業者、貿易商社)26社は鈴木商店、川崎造船所、大阪鉄工所、三井物産の4社が発起人となり大正6(1917)年8月7日、「米鉄輸出解禁期成同盟会」を結成し、鈴木商店に仮事務所を置いた。ここにおいて、金子直吉は民間における鉄材輸出解禁運動の総帥として先頭に立つこととなった。

一方、東京においても石川島造船所、浦賀船渠、浅野造船所、川崎造船所、三井物産、三菱合資、鈴木商店を始めとする民間造船関係業者24社が集結し同年8月11日、「米国鉄材輸出解禁期成同盟会」を結成し、以後神戸と東京の同盟会は一致協力してこの難局に当たることとなった。

日本政府(外務省・逓信省)はこのような民間諸団体の解禁運動を待つまでもなく、逸早くアメリカ政府と「日本は鋼材を輸入する代わりに船舶を輸出する」という「船鉄交換」交渉を進めていたが不調に終わり、大正6(1917)年11月に交渉を打ち切った。

このため、金子直吉が斡旋の労をとり大正7(1918)年2月、主要民間造船関係業者(浅野系、鈴木系、三井系、三菱系など)は各社連合の成案を得て大同団結してアメリカ政府との交渉に当たることとなり、関東は浅総一郎、関西は金子が代表となった。ただし、交渉自体は政府を通して行うこととした。

これを受けてアメリカ政府は商議を東京に移し、大正6(1917)年11月に着任したばかりの駐日米国大使、ローランド・S・モリスに交渉を委任した。両者は数次にわたって折衝を続けたが両者の考えには相当の隔たりがあり、結局この交渉も不調に終わった。

それまでの官民による一連の交渉では、日本側はあくまでも「まずアメリカから鉄材の供給を受け、後にその鉄材で造った船を供給する」という鉄材優先志向の立場を貫く一方、アメリカ側はそれとは反対に船舶優先志向の立場を貫いたため、完全に膠着状態に陥っていた。

この状況を眺めていた金子直吉は決然と立ち上がり大正7(1918)年3月18日、関係各社から交渉再開を自分に一任してもらうよう同意をとり付けると、即日かねて昵懇(じっこん)の内務大臣・後藤新平の紹介状を携えてアメリカ大使館に赴き、金子自ら民間代表としてモリスとの直談判に臨んだ。通訳には、後藤が金子のために特別に派遣したジャパン・タイムスの()(もと)元貞があたった。

あらかじめモリスの経歴を調査し、彼が破産管財人まで務めた人物であることから純真な面もあろう、と考えた金子は交渉の冒頭でモリスに対し、日本もまた「連合国の一員」であること、さらにアメリカの伝統である「自由と義務に忠実なる精神」を突き、「世界平和への貢献」に対する限りなき希求を訴え、日米双方の立場の「有無(うむ)相通(あいつう)ずる(一方にあって他方にないものを融通し合う)調整」が絶対不可欠であることを力説した。

そして日本側が、当時わが国で最も大きな造船能力を有し、アメリカに対し提供できる最も多くの船舶を有する川崎造船所社長・松方幸次郎が主張する案からさらに譲歩した条件で交渉に臨んでいることを強調し、アメリカ側の再考を促し、譲歩を迫った。

金子の誠意と公明な態度に動かされたモリスは本国と協議するも、なお両者の隔たりは大きく、交渉は中々進展しなかった。そこで金子はそれまでのすべての交渉に共通した、あくまでもわが国の立場を貫き続ける方針を改め、アメリカ側に最終の新提案を出すよう要請する。この新提案について協議した結果、ようやく成案を得るに至った。ここに大正7(1918)年4月23日、第1次船鉄交換契約が成立し、続いて同年5月1日、第2次船鉄交換契約が成立した。

第1次の契約条件は、「鉄材1トンに対し船舶1重量トン」の割合で、わが国より新造船15隻・127,800重量トンをアメリカに提供する。船舶はアメリカの海港で引渡し、鉄材127,800トンおよび銑鉄10,236トン(銑鉄は「補助材料」として追加された)を船舶引渡前にアメリカ沿岸で受取るという内容。第2次の契約条件は、「鉄材1トンに対し船舶2重量トン」の割合で、わが国より新造船30隻・246,300重量トンをアメリカに提供し、鉄材123,150トンおよび銑鉄23,800トンを受取るという内容であった。

船鉄交換契約成立に伴う播磨造船所の建造実績は次のとおりであった。

(1)第1次船鉄交換契約によるもの
「EASTERN KING」[第7與禰丸](4,924重量トン)、「EASTERN SHORE」[第8與禰丸](11,054重量トン)、および浦賀船渠へ外注建造した「EASTERN CROSS」[第6霧島丸](6,800重量トン)の3隻、合計22,757重量トン。

(2)第2次船鉄交換契約によるもの
「EASTERN PILOT」(4,951重量トン)、「EASTERN SOLDIER」(10,626重量トン)の2隻、合計15,577重量トン。

◆船鉄交換契約者は次の通りで、両契約を通じてのトップは12隻・108,630重量トン(全体の28.9%)の川崎造船所であった。
・第1次契約5社・15隻・・・川崎造船所7隻、帝国汽船3隻、日本汽船3隻、浅野造船所1隻、浦賀船渠1隻

・第2次契約12社・30隻・・・川崎造船所5隻、帝国汽船2隻、浅野造船所2隻、浦賀船渠4隻、三井物産2隻、大阪鉄工所4隻、藤永田造船所1隻、新田汽船1隻、三菱造船2隻、東京石川島造船所2隻、横浜船渠3隻、内田造船所2隻

◆交換船の建造は、次の各造船所が担った。
川崎造船所、播磨造船所、浦賀船渠、大阪鉄工所因島工場、大阪鉄工所櫻島工場、三井物産造船部玉工場、藤永田造船所敷津工場、新田汽船新田造船所、浅野造船所、三菱造船長崎造船所、三菱造船神戸造船所、東京石川島造船所、横浜船渠、内田造船所

大正7(1918)年7月1日、民間造船関係業者は「米鉄輸出解禁期成同盟会」を解散すると、新たに「日米船鉄交換同盟会」を結成する。同会の総帥となった金子直吉は同会が解散する大正9(1920)年9月30日まで船鉄交換の所期の目的達成のため力を尽くした。

◆わが国は、大正9(1920)年9月23日にアメリカに引渡した浦賀船渠の「EASTERN SWORD」(5,531重量トン)を最後に、すべての交換船の引渡しを完了した。

第1次、第2次の船鉄交換契約を通じてわが国からアメリカに輸出した船舶は45隻・376,109重量トン、アメリカからわが国に輸入された鉄材は284,986トンに達し、船鉄交換による余剰鉄材によって膨大な国内残留船腹を産み出す一方で、鉄材確保と船舶輸出の両面においてわが国の造船業界に巨額の利益をもたらし、造船技術面においても画期的な革新をもたらすこととなった。

■船鉄交換契約が成立すると大正7(1918)年5月28日、神戸の料亭「常盤花壇」でモリス大使一行の歓迎会が催された。その席上で、モリスは次のように金子直吉の功績をたたえるとともに、その人物の偉大なることを表明した。

「一言個人的な思い出を語るが、そもそも予が日米船鉄交換の契約を締結するに当たって、諸君の代表となって数カ月にわたり、予とアメリカ大使館の事務室において交渉を重ねられたのは実に金子直吉氏その人である。同氏が賢明でしかも忍耐に富み、機敏で公平な判断力と寛大な態度を持し、よく幾多の困難を排し、ついにこの契約をまとめられたことに対して、予は称賛してやまないものである。このような偉大な人物には、予が弁護士就職以来25年の間一度も会ったことがない。この点に関し、この偉人を市民の一人として有しておられる神戸市および神戸実業家諸君は、大いに本日実業界の誇りとすべきである」

■大正7(1918)年8月21日に行われた船鉄交換船「EASTERN SHORE」[第8與禰丸]の進水式において金子直吉は次の訓示を行った。

「楠木正成が赤坂城で戦った時、城とは名ばかりで、何等の防禦設備もなく、武器も道具も乏しかったが、正成を信頼する将兵は一丸となり、奇知を縦横に働かせて、よく数十倍にも及ぶ敵の大軍を悩ますことができたのである。播磨造船所も今正に赤坂城にひとしく、設備も器具も未完成で、他の造船所に比べて誠に貧弱であるが、どうか諸君は部下をよく統率して知謀をめぐらし、先進造船所に負けないような立派な船を造ってもらいたい」

■大正9(1920)年4月3日、船鉄交換船「EASTERN SOLDIER」の進水式が大々的に挙行された。進水式には、アメリカ大使館員、アメリカ船舶局代表マグレゴ―をはじめ、阪神在住の外国紳商、官民の名士数百人が参列し、町内には華やかな進水歓迎のアーチが建てられ進水を祝い、播磨造船所で最初の進水記念絵葉書も作成された。

播磨造船所の歴史⑥

  • モリス大使一行の歓迎会(大正8年5月28日 神戸 「常盤花壇」にて)

    モリスは中央列右から3人目、その左に外国人1人を挟んで金子直吉、後列中央・日本髪の女性の左に松方幸次郎

  • 船鉄交換船「EASTERN SHORE」の進水式(大正7年8月21日)
  • 船鉄交換船「EASTERN SOLDIER」

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