帝人設立の歴史⑤

高畑誠一を頼り欧州出張、秦の男泣き

久村(くむら)(せい)()が米沢に赴任しても人絹の品質は改善せず、金子直吉も「なめくじの這ったあとのあの光沢を研究してみたらどうか。なめくじをヴィスコースに入れてみろ」と素人ながら秦、久村と一緒に悩みを共にした。

大正5(1916)年10月頃には、質は悪いもののようやく光沢のある糸が出来るようになってきた。同年末の東工業の事業報告書は人絹について「7月から製造に着手。最初は幾多の困難に遭遇し、10月には輸入品に匹敵する優良品を製造。更に設備を増設し、増産を計りつつあり」と実態とは異なる前向きな報告となっている。また「技師を欧州に派遣せり」との一文が加えられていた。

この技師とは秦逸(はたいつ)(ぞう)のことである。金子直吉は品質の向上を図るため、秦を欧州に出張させることにした。当初金子は久村に欧州出張を打診したが、久村は秦が米沢高等工業学校の講師を辞めてまで人絹の研究に力を注いでいる姿を見て、秦を出張させるよう何度も金子に勧める。金子も「君たちは兄弟だな」と承諾するのであった。

秦は欧州出張の前に、ヴィスコースの発明者である英国のクロスに対して人絹のサンプルと工場の製造装置の写真を添えて手紙を出し、アドバイスを求めている。しかしその手紙の返事は「見本は不出来である。君に忠告する。この仕事を日本で始めることは思いとどまれ。日本で人絹を製造することは無謀である。日本には天然絹糸がある。私は仕事上の秘密を伝授することはできない」と非常に屈辱的なものであり、秦は欧州出張に行っても得られるものはないと金子に告げる。しかし金子は「是非西洋へ行け。獲物なぞ何もなくてもいい」と秦を励ました。

秦の欧州出張に際しては、鈴木商店ロンドン支店長・高畑誠一がアテンドした。以後高畑は人絹の開発のみならず、戦後帝人が合成繊維を導入する際にも帝人に深く関与することになる。米沢工場で採用された初めての原価計算書も高畑に送られており、高畑からは経営面でもアドバイスを受けている。

金子は英国のコートルズ社がモスクワで人絹の製造を始めたことを聞いていたので、外務大臣から紹介状をもらいシベリア経由で秦を出張させた。秦は大正4年(1915年)11月25日に米沢を出発する。しかし、モスクワの工場では社長との面会は実現したが、工場の見学は許されなかった。その後、ノルウェー経由でロンドンに到着したが、当時は第一次世界大戦の最中でドイツの潜水艦の攻撃の恐れもあった。ロンドンに到着すると、高畑が当時コートルズ社のロンドン支配人をしていたクロスとのアポイントを電話1本で手配してくれたのに秦は非常に驚いたという。

クロスは「実験室で指導することはできない。鈴木商店との提携も興味なし」との返事であった。それでもクロスは秦をつれてマンチェスターまで行き、ハイテクニカルスクールのクネヒト教授を紹介してくれた。秦はコートルズ社の工場のあるコヴェントリーに立ち寄り、工場の排水を汲み取ったり、職工をご馳走して工場の見取図を書かせたりした。そして職工の服についていた人絹糸を見つけて1本つまみ取り、宿に帰ってからつくづく眺めて「これがコートルズの糸か」と男泣きしたという。

その頃、ロンドンの鈴木商店の一室を借りて、高畑とともに連合国相手にビジネスを展開していた川崎造船所の松方幸次郎がたまたま秦と同宿した。松方は秦の苦労に同情し、帰国後金子にそのことを語っている。

フランスでは高畑の西条中学校、神戸高商の一つ上の先輩である伊藤述史がフランス公使の立場にいて、それとなく便宜を図ってくれたこともあり、ソシエテ・ド・ラ・ヴィスコースと3カ月にわたり交渉することが出来た。しかし鈴木商店との提携を申し入れるも不調に終わり、これといった収穫を得ることはできなかった。

続いて秦はアメリカに渡り、鈴木商店ニューヨーク支店の協力を得て人絹の技師を紹介してもらい、その技師の紹介により遠心分離機、フィルタープレス、ヴィスコースの撹拌熟成機を注文して帰国する。秦はサンフランシスコから太平洋を横断し帰国するのであるが、あまりの収穫の無さに、痛恨と絶望から船中で自殺を考えたこともあったという。

大正7(1918)年3月に神戸に到着した秦は、帰国後「世界の大勢から日産1万ポンドの工場規模が適当である」と報告している。しかし当時の米沢工場の人絹生産量は日産100ポンドを遥かに下回っていたのである。

  • 洋行中の秦逸三(右)
  • ロンドンの高畑邸にて(下段中央が高畑誠一)
  • 高畑誠一像(内子町立内子小学校)

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