D.糖商鈴木商店の台湾進出と平高寅太郎

北九州・大里製糖所を軌道にのせ、台湾進出を本格化

樟脳商としての鈴木商店の台湾進出は、明治28(1895)年8月、すなわち領台の年に「小松組」名義で実現した。それに比べると糖商としての鈴木商店の台湾進出はかなり遅い。『柳田富士松伝』に「以前より後藤(新平)から金子に糖業地許可の話もあつたが大里の経営に暇なく遂に十分腕を伸し得ず」とあるように、大里製糖所を軌道に乗せることで手一杯だったのである。その見通しがついた明治40(1907)年、鈴木商店はようやく糖商としての第一歩を台湾の地にしるすのである。       

台湾出張を命じられたのは、のちに鈴木商店の「四天王」と呼ばれた平高寅太郎である。上海から帰国したばかりの平高に、金子は3,4ヶ月程度の出張として台湾行きを命じたが、その後実に16年の長きにわたって台湾の業務に従事することになった。当初は、台南の旭館という旅館に泊まっていたが、やがて一軒家を借り受け、そこに「鈴木商店台湾出張所」という看板を掲げて業務を開始、主に赤糖の買付などを行った。この出張所が、台湾での鈴木商店のはじめての店舗となった。鈴木商店が、台湾において、本業の商業はもとより、製糖業はじめ様々な産業部門へ進出して財閥系商社と勢力を二分する地位を確立できたのは、ひとえに平高の辣腕と長期滞在による成果である。まさに「鈴木の台湾探題」の異名をとるにふさわしい業績を残したといえよう。

鈴木商店は台南を拠点として、明治末年までに台中、嘉義、打狗に出張所を開き、台南を台湾支店をとした。大正2(1913)年には台北出張所を開設し、台北に台湾支店を移すと、台南は出張所に降格となった。こののち基隆、台北、対岸の厦門、汕頭、福州に出張所を開設している。平高もこれに従って、台南から台北に拠点を移し、台湾支店長として島内の事業全体を統括した。平高帰国後の大正9(1920)年、台南が再度支店に昇格し、台北・台南の2支店のもとに各出張所を管轄する体制が整えられた。平高は内地にあって、台湾、南支南洋方面の総監督となって、引き続き采配をふるったのである。

  • 古都台南の街並み
  • 平高寅太郎台北支店長(大正期)
  • 鈴木商店の島内組織変更を伝える台湾日日新報

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