A.いざ台湾へ

小松組名義で台湾進出

明治28(1895)年4月、下関条約が締結され、台湾の割譲が決まると、金子直吉は渡台の機会を探り始めた。同年5月、新領土受け取りのため軍艦松島が神戸港に入ると、分隊長として乗り組んでいた同郷の先輩島村速雄に面会して便乗を依頼するが、商人を乗せるわけにはいかないとあっさりと断わられた。その後、これも同郷の友人肥田景之が大工100人を台湾に送る命を受けていることを知り、その取締のような資格で店員小松平太郎を潜り込ませることに成功した。

こうした動きを、金子は鈴木商店単独で行ったのではない。まず神戸市内の樟脳関係者とともに「神戸樟脳商同盟会」を結成した。そして台湾視察団の派遣を決めると、鈴木商店からは小松平太郎を送り出した。またそれとは別に、当時再製業者の代表格であった小松楠彌と連携し、彼の名をとった「小松組」を組織して、台湾及び神戸での樟脳事業の基礎とした。こうして小松平太郎、小松楠彌らは同年8月、台湾に渡ったのである。これが鈴木商店の台湾における事業活動の第一歩となった。

小松楠彌ら再製業者と結成した「小松組」の中には、そのまま台北に残留し、現地での調査や業務の準備に着手した者もあった。一方、金子が派遣した小松平太郎は帰国して台湾での製脳状況を報告した。鈴木商店では、この報告を受けて、民間人の渡航が解禁される翌29(1896)年より、台北大稲埕建昌街において樟脳及び樟脳油の買い取りを開始した。この事業はあくまで「小松組」名義であって、鈴木商店の名が表に出ることはなかったのである。

ところで、金子が島村速雄を訪ねた5月頃から、樟脳の価格が急騰を始める。原因はイギリス樟脳商の買い占めによるものであったが、この動きを知らない金子は、最高値100斤40円と見込んで、外商に先物売りを仕掛けていた。樟脳価格は結局100円近くまで上昇し、金子を大いに悩ませたばかりか、鈴木商店は破綻の危機に直面するのである。まさにそれと時を同じくして、金子は台湾への進出計画を積極果敢に進めていたのである。

  • 領台初期の基隆港
  • 小松楠彌
  • 小松組の新聞広告(台湾日日新報)

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