①佐賀城跡

肥前三十六万国、鍋島氏の居城・佐賀城を象徴する鯱の門

佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。

城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。

佐賀城はもともと戦国時代、龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。九州北西部から肥前東部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12(1584)年に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握った。

直茂は早くも、天正13(1585)年には村中城改修を計画している。しかし未だ当主であった龍造寺政家の居城であり、直茂は蓮池城が居城であったため、主家に憚って計画には手を付けなかった。計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7(1602)年本丸の改修を始めてからである。直茂の計画に則り、次の藩主鍋島勝茂が慶長16(1611)年に完成させ、外様大名の鍋島氏の居城となった。

260余年にわたり鍋島家が治めた佐賀藩では、幕末維新期の激動の時代、第10代藩主鍋島直正は、折から藩政改革や西洋の科学技術の導入を積極的に行った。「反射炉築造」により鉄製大砲鋳造、蒸気船建造、西洋医学の導入などを進め、「佐賀藩の理化学研究所」とも呼ばれる施設「精煉方」を設ける等、佐賀藩を我国最先端の科学技術の発信地に引き上げ、稀代の名君と称された。

さらに直正は、享保、天保年間に二度にわたり焼失した佐賀城本丸御殿を再建した。

佐賀城本丸は、現在佐賀城公園となり本丸入口に鯱の門が現存し、内部には本丸御殿が復元されている。また、二の丸跡には鍋島直正の生誕200年を機に銅像が再建され、平成29(2017)年3月に建立された。

関連資料

  • 佐賀城・鯱の門
  • 佐賀城石垣
  • 佐賀藩祖鍋島直茂

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