④-3 神戸高商出身者他~鈴木商店社員にまつわる話シリーズ②

外地で活躍した商社マンの先駆け

◇冨永初造 (大正8(1919)年神戸高商卒業 第13回生)

◇入野寅蔵 (早稲田大学中退:年次不詳)

<冨永初造> 岡山出身。神戸高商の卒業生名簿によれば、卒業後、神戸の米材輸入商・羽山商店に入社し、間もなくシアトル支店に赴任。大正11(1922)年、大阪の名門木材商社・石定商店が破綻し、その影響から羽山商店が整理に追い込まれるとそのまま鈴木商店シアトル支店に移り、その後も5年間シアトル勤務が続いた。

帰国後、兵庫県・芦屋川西岸に居を構えるが、木材取扱いの経験から米国2×4(ツー・バイ・フォー)工法による西洋風住宅を建築する。米国の建築家・ベイリーに設計を依頼、木材は米国から取り寄せ、日本人大工により施工した。日本に現存する2×4建築様式の原型による住宅として貴重な建築物でもある。(大正14(1925)年竣工)

この冨永邸のある神戸市東灘区深江町の2,500坪の敷地一帯には、大正後期に地元の資産家、医師が中心となって西洋館街が作られ、欧米の音楽家、ロシア革命を逃れた芸術家が多く住んだ。トルストイの末娘が、一時この邸宅街に住みながらロシア人・モロゾフ(チョコレートで知られるモロゾフ製菓創業者)の庇護を受けたことがあったという。13軒の趣の異なる邸宅が建ち、日本人の著名な芸術家、音楽家が住んでいた。指揮者・朝比奈隆、音楽家・服部良一、バイオリン奏者・貴志康一、画家・小磯良平などが住人であったが、現存する邸宅は、冨永邸と古澤邸の2邸のみとなった。この2邸は、いずれも国の登録有形文化財に指定され、現在この一帯は「深江文化村」として保存されている。なお、冨永邸には、冨永初造の長男・幹太の夫人喜代子さんが住まわれており、築90年に及ぶ文化財を守りながら「深江文化村の証言者」としても活躍されている。

入野寅蔵> 福井県出身。早稲田大学文科中退。夫婦揃ってロシア正教会の信徒で、夫婦でお茶の水のニコライ堂・ロシア語学院でロシア語を学ぶ。鈴木商店浦塩(ウラジオ)支店長を務め、同時に浦塩日本居留民会会頭、浦塩日本商業会議所副会頭の要職に就く。

大正11(1922)年9月一時帰国した入野は、神戸新聞の取材を受け、帰国直前に長春で開かれた日本・極東共和国間の国交協議いわゆる「長春会議」が決裂し、極東共和国のロシアソビエト連邦からの自立と日本軍の北樺太からの撤退交渉が不調に終わった経緯や、シベリア経済事情について解説している。

昭和2(1927)年の鈴木商店の破綻により浦塩支店の閉鎖と帰国を余儀なくされ た。入野の長男・義朗は、入野が浦塩の支店長として住んだ建物で生まれ育ち、帰国後作曲を学び後に著名な作曲家として大成し、日本作曲家協議会委員長、日本現代音楽協会委員長を歴任するほか、桐朋学園で教鞭を執るなど大きな功績を残している。

  

関連資料

  • 深江文化村の冨永邸
  • ウラジオ支店長入野寅蔵が住んだ建物
  • 入野寅蔵・義朗親子が住んだウラジオの建物に残るプレート

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