④-2 神戸高商出身者~鈴木商店社員にまつわる話シリーズ①

学生スポーツ界で活躍した神戸高商出身者たち

 ◇久 琢磨(大正8(1919)年卒、第13回生) 相撲部

 ◇田中四郎(大正11(1922)年卒、第16回生) 相撲部

 ◇須原政一(大正13(1924)年卒、第18回生) バレーボール

<久琢磨>高知・室戸出身だが高知商業卒業ではなく大阪・成器商業(現・大阪学芸高等学校)卒業。神戸高商時代は、相撲部のキャプテンとして活躍、関西学生相撲大会で優勝するなど神戸高商・相撲部の基礎を築いた。後年、久は、鈴木商店に入社し、鈴木商店と高知商業の関係から高知商業の校友となり、同校の相撲部のコーチとして業務のかたわら度々指導に訪れた。また、高商出身者ながら土佐派の中核としても大きな役割を果たした。鈴木破綻直前、台湾銀行等による金子直吉退陣要求に土佐派として強く抵抗を示した。

作家・城山三郎により鈴木商店焼き打ち事件を描いた小説「鼠」の中に、鈴木商店の生き残りの証人として登場する「久老人」こそ、この久琢磨である。神戸高商時代は、金子の資金援助により運営されていた「土佐寮」から通っていた。鈴木入社後は、土佐派として金子直吉の側近を自負していた久が、鈴木破綻後、あれほど鈴木を敵対視していた朝日新聞社に移ったのは、神戸高商の相撲部の大先輩で朝日新聞に居た石井光次郎(後の衆議院議員、商工、運輸、国務、通産、法務大臣歴任)から誘われたからといわれた。

朝日新聞社時代、石井の紹介で合気道の植芝盛平を社に招き指導を受けたことから武道との関わりが始まる。次いで植芝の師・武田惣角(大東流合気柔術中興の祖)の指導を受け、当時3万人とも云われた門弟のうち、唯一人免許皆伝を授けられ、同派の後継者と認められた。後年、久の門弟たちによって「琢磨会」が結成され全国に支部が設けられている。なお、植芝は、大東流から離れ、独自の流派「合気道」を開きその開祖となり、現在は合気道に二大流派が存在している。

<田中四郎>和歌山出身で、和歌山商業時代、全国少年相撲大会で優勝。神 戸高商では久琢磨より3年後輩。久の誘いで相撲部に入部、2年目に全国学生相撲大会で優勝し、初の学生横綱となり、神戸高商相撲部の全盛期を築いた。神戸高商入学に当たって、先輩の久が金子直吉に"余り仕事をさせず、一人の秀才に学問をさせる積りで育てて貰いたい"と頼むと金子は、"わかった。三男(猪一)の勉強をみてやってくれれば上等じゃ。連れて来い。"とあっさり土佐寮での下 宿を認めたという。

田中は、鈴木破綻後の昭和4(1929)年から3年間、鈴木の関係会社の「山陽電気軌道」で運輸課長として勤務し、数々の催事を企画。西日本の"宝塚"を目指し、長府土地との共同事業として進めた「長府楽園地」も田中の企画で実現したもの。また、田中は、歌人・土屋文明に師事し、アララギ派の歌人としても知られ、ペンネーム「青野 梓」名で多くの歌を残しており、歌集「青野」、「初夏集」などを著している。「長府楽園地」についても次の歌を残している。

"ひろびろと見ゆる埋立の遊園地形の植込みは風になびかふ"

夫人は、金子直吉の次女・須磨子で、後年太陽産業の役員も務めたが、終戦の日、昭和20(1945)年8月15日の終戦の日、北朝鮮にて戦死。

<須原(後の西川)政一> 兵庫・丹波出身。旧制小学校高等科を終え、鈴木商店に見習い社員(ボンさん)として入社。支配人・西川文蔵宅に下宿し、夜学に通いながら見習いを続けたが、西川の計らいで一旦、鈴木を退社し、神港商業から神戸高商へ進学する。神 戸高商在学中に恩人・西川が急死する。一方、学生時代にはバレーボールの選手として活躍し、大正12(1923)年、第6回極東大会(極東オリンピックの)が大阪で開催され、神戸高商チームが日本代表として出場。当時、国内では断トツの強豪だったが、同大会ではフィリピンが優勝するなど日本は国際大会での成績は振るわず、バレーボール後進国であった。バレーボールとの深いつながりは、この時から始まった。

大正13(1924)年、神戸高商を卒業し再び鈴木商店に入社。外国電信課での2年間の勤務態度を認められ、小麦課長をしていた高商の先輩・落合豊一の下で新たな歩みを踏み出したが、昭和2(1927)年、鈴木商店は破綻の運命を辿る。この運命の日の翌日に故西川文蔵の次女との結婚披露を予定していた須原は、披露宴を中止、西川姓となって翌昭和3(1928)年、わずか39名で船出した「日商」に参画。鈴木時代と同じく落合の下で小麦課で働くことになった。

西川とバレーボールの繋がりは、神戸高商以来続いて、後の「日本バレーボール協会」となる「関西排球協会」を創設、西川は事務局長をへて会長に就任。その後同協会は、日本バレーボール協会に発展し、西川は昭和23(1948)年から長く会長を務めた。昭和39(1964)年10月、東京オリンピックで優勝した女子バレーボールチームにメダルを授与した西川(当時、日商社長)のこの上ない喜びの笑顔が忘れられない。

関連資料

  • 久琢磨の大東流合気柔術指南
  • 初の学生横綱となった田中四郎の勇姿
  • 極東大会に出場した神戸高商バレーボールチーム(前列右から2人目が須原(西川)政一)

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