(A)-⑨太陽小学校

街の誇りでもあった円形体育館とプール

太陽小学校は昭和15(1940)年12月8日、太陽尋常高等小学校として開校した。場所は末広町にあった太陽産業の社宅(六戸一棟長屋)の一部を借用し校舎とした。屋根だけで壁はなく、地面に木板を敷いてつないだだけであった。当然、体育館もグラウンドもなく、教材なども十分ではなく子供たちにとっては極めて厳しい環境であった。

昭和16(1941)年4月1日、太陽国民学校に改称。昭和22(1947)年4月、太陽小学校に改称。「太陽」の名称は、創業期の炭鉱所有者で鈴木商店の後継会社たる太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)に由来する。当時の生徒数は一学年から高等科までの8学年で53名であった。      

昭和20(1945)年9月7日、岡町に8教室のほか屋内運動場など建坪388坪の校舎が完成した。一日千秋の思いで待ち望んでいた子供たちは、社宅の校舎から机や椅子を運び新校舎に移った時、皆嬉し涙を流していたという。その陰には、設備・教材をはじめ物心両面にわたる会社(羽幌炭砿鉄道)の強力なバックアップがあったことを忘れてはならない。昭和22(1947)年4月1日、太陽小学校に改称。

昭和35(1960)年当時の全校生徒数は1,065名。留萌管内で1、2を争う大規模校となる。体育館、グラウンド、図書室、保健室なども完備し、設備の面では都会の学校に決して劣るものではなかった。

なかでも管内のトップを切った二つの施設があった。一つは道北では初めてとなる当時大変珍しかった円形体育館で、昭和37(1962)10月7日に竣工。ダイヤモンド・ドーム型鉄筋組みで内外とも防火補強コンクリートブロック積み、直径32.7m、広さ839.5㎡、中二階にベランダが設けられ、舞台もあり放送施設も完備していた。もう一つはプール。これも管内の一番手として昭和39(1964)年7月8日に完成。幅16㍍、長さ25㍍、深さ1㍍で10コースがとれる浄化装置が完備したプール。更衣室もあり、夜間用に水銀灯照明も完備した本格的なものであった。

その後、昭和41(1966)年12月24日に鉄筋3階建ての校舎が新築されたが、炭砿の閉山に伴い昭和46(1971)年5月31日に廃校となる。子供たちにとっては、突然訪れたつらく悲しい別れであった。

昭和57(1982)年6月、太陽小学校の跡地は宿泊施設、炭鉱資料などの展示施設、野球場、パークゴルフ場、キャンプ場などを備えた「緑の村」として開村したが、ここも平成13(2001)年3月に閉鎖された。

残念ながら、前記の円形体育館は平成30(2018)年3月下旬に倒壊した。2階部分の壁が崩れ、ドーム型の屋根がほぼ垂直に落ち込んだ状態になってしまった。築55年を超え老朽化が進行していたのに加え、数日間続いた降雨で屋根に積もった雪の重さに耐えられなくなったものとみられる。

  • 太陽小学校跡(平成26年7月)
  • 太陽小学校のプール跡[後方は円形体育館](平成25年頃)
  • 中央に太陽小学校の校舎と円形体育館が見える(当時)

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