築別炭砿の「大竪入」坑道の坑口

築別炭砿の心臓部ともいえる役割を担った運搬坑道の坑口

築別炭砿は昭和25(1950)年9月に発生した1カ月におよぶ長期ストの終結を機に、その後は労使一体となり徹底した合理化・技術革新を推進していった。その成果の一つが築別炭砿の主要運搬坑道「大竪入」(おおたていれ)であった。

「大竪入」坑道は石炭を坑内から坑外へ搬送する総延長2,000m余り(幅員3m余り)の一大幹線で、昭和26(1951)年10月に着工し、2億円の巨費を投入して昭和28(1953)年に完成する。以後ヤマの心臓部ともいえる重要な役割を担い、長年の夢であった年間出炭量100トン超え(昭和36年度)の原動力となった。

この「大竪入」坑道の完成に平行して、原炭ポケット、(ろく)(はこ)返しチップラー(鉱車)、ベルト桟橋、チェーンコンベアーなど坑外施設の近代化が一気に進展した。これにより、第一線の切羽(きりは)から坑外の選炭工場への一連の運搬システムが完成し、石炭の運搬能力は従来の2倍以上と格段に向上した。

さらに「大竪入」坑道に人車(じんしゃ)を走らせることにより、それまでの切羽までの歩行距離6,000mが電車の使用による2,800mとなり、これによる鉱員の労働時間伸長も石炭の増産に寄与するところとなった。

なお、「大竪入」坑道の坑口上部に掲げられていた「築別本坑」名の標示板(炭鉱では「扁額(へんがく)」と呼ばれていた)は取り外され、現在は「羽幌町郷土資料館」に展示されている。

  • 「大竪入」坑道の坑口跡(平成30年5月)
  • 「羽幌町郷土資料館」に展示されている“築別本坑”と記された「扁額」(平成26年7月)
  • 「大竪入」坑道の坑口(当時)

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