(C)上羽幌坑

羽幌本坑と一体となって合理化を推進

終戦後、会社は政府の新炭鉱開発推進の要請に応える形で、上羽幌坑と羽幌本坑の開発に着手した。

上羽幌坑は羽幌本坑開坑の一年前、昭和22(1947)年8月に開坑した。昭和24(1949)年2月、羽幌本坑と上羽幌坑が合併し、羽幌砿業所が設置された。

これにより、両坑は一体となって先行する築別炭砿に追いつくことを目標にした。当時上羽幌坑は「二坑」とも呼ばれていた。上羽幌坑のピーク時(昭和43年度)の出炭量はおよそ262,000㌧。

上羽幌坑は羽幌砿業所の下で羽幌本坑とともに、昭和34(1959)年に策定された合理化5カ年計画などに基づく徹底した合理化(*)を推進していった。

(*)本坑・二坑の連絡坑道工事、本斜坑三線軌道工事、排気立坑新設工事、複胴巻上げ機新設工事など。

炭鉱集落としては、羽幌川の両岸に神楽台、旭町、柳町、くるみ町、緑町が点在していた。旭町とくるみ町を中心にして商店街、役場支所、駐在所、消防所出張所、郵便局、公民館分館、二坑会館、クラブ、診療所、大五百貨店分館などが集約されていた。出炭量の増加に伴い、福利厚生施設は充実の度を増して行った。また、神楽台には上羽幌小学校、上羽幌中学校があった。昭和40(1965)年10月1日時点で568世帯、人口は2,592人。

主な炭砿遺構は次の通りである。なお、写真と詳細な説明は下記よりご覧下さい。

c_kamihaborokou.png

印の場所については別途詳細な解説ページがあります。

≫上羽幌坑のその他の写真

索道貯炭場 

二坑本斜坑口 

連斜坑口                           

坑口浴場

上羽幌小中学校跡

上羽幌坑、羽幌本坑両坑の合計出炭量は、昭和23年度-12,600㌧、30年度-174,500㌧、40年度-563,900㌧、43年度-698,400㌧と急激な伸びを示し、昭和39年度には築別炭砿に匹敵する水準となった。しかも、1人当たりの出炭量は全国トップクラスを誇った。

  • 上羽幌坑の索道貯炭場跡(平成25年頃)
  • 上羽幌坑の航空写真(昭和43年夏) 
  • 上羽幌坑の選炭工場・貯炭場、索道(当時)

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