(A)築別炭砿

会社の屋台骨を支え続けた羽幌炭砿の主力坑

築別炭砿は昭和15(1940)年2月、他の二山(羽幌本坑と上羽幌坑)に先行して開坑以来、長年にわたり会社の屋台骨を支え続けた主力坑である。

前記二山に先行する形で合理化と技術革新を断行。その象徴が昭和28(1953)年10月に完成した主要運搬坑道、出炭用の一大幹線ともいえる「大竪入」(おおたていれ)とこれを軸にした坑内外施設の近代化である。これを機に出炭量は飛躍的な伸びを示していく。

それに伴い、鉱員、職員およびその家族の人数も増加の一途を辿った。昭和40(1965)年10月1日時点で1,406世帯、人口は6,182人。ピーク時(昭和36年度)の出炭量はおよそ536,000㌧。

炭鉱集落としては築別川の両岸に岡町、谷町、古賀町(上古賀町、下古賀町)、旭台、金子町、末広町が点在していた。築別炭砿駅前には商店街(築別炭砿商店街)、羽幌炭砿鉄道病院が、築別炭砿事務所の周辺には役場支所、消防本部、 築炭会館、末広クラブ、幼稚園、研修所、生協、大五百貨店、大山祇神社などが集約されていた。また、岡町には太陽小学校が、金子町には太陽中学校、築炭グラウンドが、旭台には築炭上クラブ(会社のゲストハウス)があった。

「鈴木商店ゆかりの地」の④辰巳橋、⑨太陽小学校以外の主な炭砿遺構は次の通りである。なお、写真と詳細な説明は下記よりご覧下さい。

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印の場所については別途詳細な解説ページがあります。

≫築別炭砿のその他の写真

選炭工場・貯炭場(ホッパー)
選炭工場は地中から揚げられた石炭に混じる不純物(ズリ)を取り除き、品質別に選別する工場。貯炭場(ホッパー)は貨車に石炭を積み込み出荷する施設である。昭和34(1959)年10月完成。いずれも当時の最先端技術を結集した施設であった。

羽幌炭砿鉄道病院
昭和19(1944)年12月、三山(築別炭砿、羽幌本坑、上羽幌坑)の医療センターとしての形態が整う。医師、看護婦他総勢38名の体制であった。炭砿の閉山に伴い、昭和46(1971)年3月閉院。

炭砿アパート
昭和44(1969)年8月から9月にかけて、水洗トイレ完備の近代的でお洒落な鉄筋コンクリート造り4階建の4棟96戸が完成し鉱員が入居した。

「ベルト大斜坑連絡坑道」の坑口

坑口浴場

築別炭砿消防団庁舎

発電所 

築炭会館

昭和39(1964)年から翌昭和40年にかけて、断層への突入や炭層下盤の泥土水の存在が明らかになったことから、最終的に会社は築別炭砿を断念し羽幌本坑・上羽幌坑への主力坑移行を企図した。しかし、一方ではエネルギー革命の荒波にはすでに抗し難く、会社は会社更生法適用を申請したがその後取り下げ、改めて労使は国の「石炭鉱山整理特別交付金制度」 (所謂「企業ぐるみ閉山制度」)(*)適用による閉山を申請し、昭和45(1970)年11月2日、羽幌炭砿はおよそ30年間の歴史に幕を下ろした。

(*)政府は石炭鉱業審議会の新石炭対策答申(昭和43年12月25日)を受け、石炭産業の最終的な再建策として再建交付金制度の新設、安定補給金の充実など石炭企業への助成策を打ち出した。同時にこれらの再建助成策によってもなお経営が成り立たない企業に対しては、一定期間(昭和44年4月1日から昭和46年3月31日)に限って「石炭鉱山整理特別交付金制度」(所謂「企業ぐるみ閉山制度」)による閉山の選択を可としたため、石炭企業は自らの責任において再建近代化か閉山かの進退を決める形となった。これに伴い、全国の多くの炭鉱が一気に閉山へとなだれ込んでいった。

  • 築別炭砿の貯炭場(ホッパー)跡(平成25年頃)
  • 築別炭砿の航空写真(昭和43年夏)
  • 築別炭砿の街並み(当時)

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