羽幌炭砿のあゆみ~Ⅳ.合理化推進期(昭和26年~30年)~

深刻な石炭不況の中、築別炭砿を中心に合理化を推進

昭和25年の長期ストを機に労使協調の道を歩み始めた羽幌炭砿は後ろ向きなムードが一掃され、ヤマには一気に明るさが戻った。会社は、昭和23(1948)年に始まった第一次五カ年計画の骨子となる各種合理化策を推進して行った。昭和26(1951)年7月には築別炭砿において「鉄柱カッペ採炭」を開始した。あわせて各種コールカッター、コンベアーの使用など機械化を推進した結果、採炭効率が飛躍的に向上し、崩落事故も皆無となった。

こうして、昭和26年度の出炭量は朝鮮特需に伴う石炭ブームの恩恵も受け23万㌧余りに急増。出炭量は北海道中小炭鉱のトップクラスに浮上し、大手炭鉱もその急進ぶりに目を向けるようになる。

昭和27(1952)年10月には娯楽・文化の殿堂といわれた「築炭会館」、「本坑会館」、「二坑会館」が完成し、都会の劇場・映画館と変わらない近代的な施設が誕生した。この頃からスポーツ活動(スキー、野球、バレーボール等)、文化活動(俳句、短歌、囲碁、将棋等)が活発になる。また、築別炭砿駅付近の築別川沿いにはおよそ200mにわたり商店街が形成され「川端町」と命名された。

昭和28(1953)年には年間出炭量100万㌧達成のための第一関門ともいえる築別炭砿の主要運搬坑道「大竪入(おおたていれ)」が2億円を投じて貫通した。「大竪入」は石炭を坑内から坑外へ搬送する総延長2,800mの一大幹線(幅3m)で、以後ヤマの心臓部ともいえる重要な役割を担うことになる。

「大竪入」の完成に平行して、原炭ポケット、架空線電車、(ろく)(はこ)返しチップラー、ベルト桟橋、チェーンコンベアーなど坑外施設の近代化が一気に進展した。これにより、第一線の切羽(きりは)から坑外の選炭工場への一連の運搬システムが完成し、石炭の運搬能力は従来の2倍以上になった。

このような羽幌炭砿の労使一体となった合理化策の推進、増産体制の拡充とは裏腹に、日本全体の石炭産業には暗雲が立ち込めていた。戦後、石炭産業の高コスト体質を改善すべく、昭和27(1952)年秋に行われた炭労(日本炭鉱労働組合)傘下の炭鉱の労使交渉において、経営側が提示した「賃金据置と標準作業量の引上げ」を主体とする合理化案に激しく反発した炭労は同年10月、63日に及ぶ長期ストを決行した。このことが石炭の供給不安を招く結果となり、政府が安価な海外炭の輸入に踏み切るきかっけとなる。さらにこの年以降、価格、使用効率等の面で国内炭よりも優位に立つ石油の急激な市場進出が始まった。

昭和28年半ばからの朝鮮戦争休戦に伴う石炭不況の到来時においては、200余りの炭鉱が閉山に追い込まれ、三井、三菱、明治、古河など大手も赤字・無配に転落する中、合理化により強靭な体質を築きつつあった羽幌炭砿は、出炭調整の声をよそに、更なる合理化・コストダウンの道を選択し、増産に邁進(して行く。羽幌炭砿が労使共存共栄体制をいち早く確立したことによって、いかに合理化の質・スピードにおいて他の炭鉱を凌駕することにつながったかが後年明らかになる。 

昭和29(1954)年8月には札幌市中央区大通西五丁目に後に羽幌炭砿の本社ビルとなる「大五ビル」が完成した。翌30年度の羽幌炭砿の出炭量は43万㌧余りと昭和25年度比ではおよそ2.6倍となり、「大竪入」を中心にした合理化・技術革新が見事に開花した形となった。

  • 「大竪入」からの人車入坑風景(当時)
  • 「カッペ」を天盤に設置中の切羽(当時)
  • 娯楽・文化の殿堂の一つ「二坑会館」(当時)

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