⑥済南

"経済作物"の落花生&落花生油の取引の中心地

 山東省の省都で政治・文化の中心地。市中を黄河が流れ、南は泰山に続く。古くから文人に愛された文化の地としても知られる。黄河文明の発祥地のひとつ。清代、中華民国時代には、日本人を含む多くの外国人が商取引のため居住した。 

 山東省は、古くから落花生の栽培が盛んで、今日では、中国の落花生生産量は世界の 4割を占め、落花生は"経済作物"として栽培される。主要な油糧作物のひとつに位置づけられる。 

 新潟大学の留学生・呉起氏の論文「三井物産の中国進出~山東省の落花生・落花生油の取引を中心に~」(2016年12月)によれば、第一次世界大戦時(1914年)山東省を占領した日本軍当局の積極的な関与により三井物産・湯浅洋行・峰村洋行・東和公司・鈴木商店・岩城洋行・泰利洋 行などの日本商社は山東省の落花生・落花生油の取引に乗り出した。

 日本商社は青島に落花生油工場を設立し、中国人から購入した粗製落花生油を自前 で精製するようになった。峰村洋行は青島において初めて落花生油工場を大正 3(1914)年12 月に設立した。これに続いて、湯浅洋行・鈴木商店・東和油房・吉沢洋行などの日本商社も落花生油工場を開設するようになった。三井物産も、大正 7(1918)年1 月青島市若鶴町に三井油房を設立している 。 日本商社は青島において十数軒の落花生油工場を設立した。 

 三井物産の落花生・落花生油の取扱いは、大正6(1917)年以降、急激に増加し他商社を圧倒する。三井物産に対抗する落花生取扱商―鈴木商店・三菱商事など―は落花生油を神戸に積み出して、そこからアメ リカに再輸出する方法しかなかったため、青島から直接アメリカに輸出する体制をいち早く整えた三井物産のそれとの価格差を解消することができなかった。

 済南の落花生の取引における日本商社の地位も、戦後恐慌と青島の還付などによって後退していた。大正 9(1920)年以前にあっては三井物産・鈴木商店・東和公司・大東公司・吉沢洋行・ 湯浅洋行・安部洋行などの日本商社は活躍していたが、大正 12(1923)年になると、活動を維持できた日系商社は三井物産・鈴木商店・隆和公司だけになった。大正12(1923)年には、それぞれの落花生取扱高は 28,000 担、680 担、500 担であった。三井物産は、鈴木商店・隆和公司を圧倒的に凌駕していた。(同論文 P7,P11-12,P15参照)

関連資料

  • 現在の済南
  • 落花生
  • 鈴木商店済南出張所広告

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