⑧大連

南満州物産と鈴木商店大連支店は、二人三脚で業容拡大したが・・・ 

 遼寧省南部に位置する大連市は、中国東北地方随一の港湾、工業、観光都市で東北アジア有数の国際金融・交通・物流センターでもある。

 日露戦争後のポーツマス条約により遼東半島先端部の租借権がロシアから日本に移った。また、日中戦争後、大連の人口は60万人を超えアジア有数の貿易港となり、日本人居住者は約20万人に達した。

 鈴木商店では明治40(1907)年頃より大豆圧搾法による効率的な製油技術の研究を続けており、工業化を図るも進展が見られなかった。大正3(1914)年、南満州鉄道(満鉄)が当時ドイツにおいて開発された"ベンジン抽出製法"の特許を取得し、大連に製油工場(大連油房)を建設することを知った金子直吉は、「圧搾法」による従来の製油事業は、「ベンジン抽出法」に取って代わられると判断し、大正4(1915)年、鈴木商店は大連油房を買収し て「鈴木商店大連工場(鈴木油房)」を設立する。鈴木商店の本格的な製油事業の始まりである。鈴木の製造事業の受け皿会社 "南満洲物産"は同年に鈴木商店からこの製油工場の経営委託をされ油房業に進出した。

 鈴木商店大連支店は、国策会社「東亜煙草」の経営および満州特産物の穀物 類の取扱いを基盤に、南満州物産と共に製油事業を柱に事業の拡大を図った。

 第一次世界大戦終了直前の欧州各国は、激しい食料不足に見舞われ、鈴木商店ロンドン支店が中心となり砂糖、小麦、大豆、油脂の大量買い付け指示が出された。

 大正8(1919)年、大連支店には、満州産小麦5,000トンに続いて追加5,000トンの注文が出され、大連の華商、ハルピンのロシア商会(ソウスキン商会)等を動員して調達。

 さらに大正9(1920)年初夏より大正10(1921)年春までの11か月間に30余万トンの小麦を大連港より欧州向けに積み出した。満鉄の長春~大連間全線に貨車10,000両が走り、鈴木の独壇場だった。(たつみ第6号P5-7「満州小麦の欧州向け輸出の思い出」田中実)

 しかし、同大連支店では、原料・大豆の先物取引に失敗し多額の損失が発生した。 鈴木商店本体の経営に影響を及ぼしかねない異常事態で、大連支店の早急な立て直し が避けられない状況となった(武田晴人著「鈴木商店の経営破綻」)

 鈴木商店大連支店の支店長交代人事は、多額の損失処理と 大連支店の立て直し、金融機関に対する信用回復のためのエー ス投入であった。

 大正 11(1922)年、鈴木商店本店・西川文蔵支配人の実弟・ 西川貴地から平高寅太郎への支店長交代人事であった。なお、同支店は、開設当初は出張所としてスタートした。

 

関連資料

  • 現在の大連
  • 鈴木商店大連支店
  • 大連出張所広告

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