⑦旧幹部社員社宅

帝大卒を含む幹部社員のために建設された社宅街

第一次世界大戦中、鈴木商店は播磨造船所を拡張し、6000人を超える従業員を擁するようになった。この時期、地元で造船所に勤める者は少なく、ほとんどの従業員が長崎・呉などの造船所から移り住んだ。

造船所は従業員を定着させるため、地元の集落の近辺を埋め立てたり造成したりして社宅の建設を進めた。那波村の西に造られた西出町は幹部社員のための社宅街である。

戦前、造船所は、幹部を「社員」、工員を「職工」と呼んでいたが、社員のうち事務系は鈴木商店から派遣され、技術系は各地の造船所から移ってきた者が多かった。造船の技術者には帝国大学卒業者もおり、高学歴の社員には相応の住宅が必要であった。庭付き一戸建ての社宅街は、昭和20年代まで経営陣を含む幹部社員の住む町とされた。

絵葉書に「この山の彼方がドック」と書かれているように、造船所は遠かったが「社員」たちは造船所から迎えに来る高速ランチに乗って造船所に通った。

昭和に入り、社宅の前面にあった入江は埋め立てられて、造船所の寮や工場が建設された。左は日新耐火、右は三石耐火の煉瓦工場である。

下関の日新リフラテック社の沿革に「大正7年、鈴木商店が彦島坩堝を設立、昭和25年、姉妹会社の日新耐火と合併、その後、独立」という記述がある。

現在、煉瓦工場と寮は撤去され、日新耐火の跡地は「イオンタウン」や「白龍城」、三石耐火の跡地は中央公園のグランドなどになっている。

  • 大正時代の社宅街
  • 昭和45年頃 日新耐火煉瓦と造船所の寮
  • 白龍城とイオンタウン

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