播磨造船所の歴史① 

村長の唐端清太郎は相生の未来を託し造船事業に進出

かつて、播磨灘に面する播州平野が西に向って尽きるところ、揖保川と千種川を東西にして相生湾(明治初年までは那波湾と呼ばれていた)が湾入したところに播磨造船所が繁栄していた。相生湾は南端の金ヶ崎(東側)および釜ヶ崎(西側)を連ねる東西約2キロの線から北へ湾入すること約4キロ、両岸は山が迫ってかつての造船所北側付近から湾口を望むことはできない。従って完全に風波から保護され、水深は6メートルないし8メートルにおよび、数万トンの巨船を係留し得る瀬戸内海屈指の天然の良港で、古来内海航路の避難港となっていた。(「播磨造船所50年史」第1章冒頭部分より)

唐端(からはた)清太郎(せいたろう(赤穂郡役所書記、後・県会議長、衆議院議員)が村長に招へいされた明治25(1892)年当時、相生(おお)は人口約5,400人の漁村であった。唐端は、大正5(1916)年まで20年余りにわたり相生の行政を主導し、町制を施行するとともに造船事業を擁する近代工業都市への道を開いたことで、彼が村長に就任していなかったなら今の相生市は存在していないだろうと誰もが思う、相生の大恩人として知られている。唐端は水産業の振興に尽力する傍ら相生を「西の神戸」にすることを目指し、次のような構想を持っていた。

(1)相生の将来の繁栄のため、船渠(せんきょ)(ドック)を建設する。
(2)船渠は6,000トン級の船の入渠可能なものを1基建設し、続いて第2船渠を建設する。
(3)船渠が完成すれば大型の汽船が入港し修理できるので人の往来が繁くなり、自然相生港を世界的なものにすることができるであろう。

明治40(1907)年3月、県会議長時代に築いた幅広い人脈を持つ唐端は、阪神の財界人や大地主・濱本家など地元有力者の支援を受け、村の未来を託して「播磨船渠株式会社」を設立する。同社の事業内容は船舶、汽機、汽缶(ボイラー)の新造および修繕とし(実際には修繕が主体であった)、役員は次のとおりで小曾根貞松(阪神電鉄社長)が社長に、唐端自身は専務取締役に就任した。

社長 小曾根貞松、専務取締役 唐端清太郎、取締役 恋田清三郎、福原芳次、曾根忠兵衛、監査役 沢野貞次郎、濱本弥七郎、浅尾豊一

明治39(1906)年12月、船渠の建設に着手したが全くの手掘りで工事は遅々として進まず、明治42(1909)年10月、基礎のコンクリートが弱かったため完成直前に船渠の生命線である戸当口(渠口)が崩壊してしまう。この打撃により資力も技術力も乏しかった経営陣は失望し、事業を投げ出してしまう。会社は解散のほかなくなり株主は全出資額を失い、重役は会社の負債のため財産を差し押さえられた。ここに至り、豪胆な唐端も手の施しようがなく諦めるほかはなかった。

この事業に当初から関与していた高橋爲久は、徒に放置されている未完成の船渠を見るに忍びず、種々研究の結果独力での再建を決意する。高橋は明治44(1911)年1月、播磨船渠の事業を譲り受けて「播磨船渠合名会社」を設立すると、直ちに船渠再建工事に着手し明治45(1912)年1月10日、遂に能力6,000トンの修繕主体の乾船渠が完成する。同社の社員は藤田萬二(代表社員)、高橋爲久、高橋津奈であった。

最初の入渠船は明治45(1912)年1月に入渠した岡崎汽船の日英丸(2,302総㌧)で、盛大な祝賀の宴が催され、大きな船が初めて相生湾に入ったので村人達は目を見張り、船渠の前途を祝福した。そして、村人はこの船渠を「わしらのドック」、造船所を「ハリマドック」と呼んだ。

高橋は事業経営上、汽船会社の資本を背景に持つ必要性を痛感し、村長・唐端の斡旋により神戸の岸本、辰馬、八馬、岡崎などの海運資本家と結び明治45(1912)年6月、「播磨造船株式会社」を設立し播磨船渠の事業を継承した。

同社の役員は、社長 岸本兼太郎、取締役 辰馬吉左衛門、八馬永藏、岡崎忠雄、榎並充造、山本藤助、高橋爲久、監査役 田中省三、坪田十郎であった。

播磨造船は直ちに機械・鋳物・製缶の各工場の建設、海岸の埋め立てを進め、ようやく修繕工場らしい相貌を整えたが、極めて小規模で当初は電気がなく、船渠の両側には高い石油灯が立てられ、船渠排水用のポンプも蒸気機関で動かしていた。従業員は繁閑により100~300名程度で、皆草(わらじ)(きゃ)(はん)に筒っぽ半纏(はんてん)という姿。技術者は2~3名にすぎなかった。

修繕船は同社への出資会社系列の船会社から回航してきたが、船主からは修繕コストをはじめ同社の内容が把握されていたため修繕料を値切られ、同社の利益はほとんど顧みられない状態が続いた。大正3(1914)年7月、第一次世界大戦が勃発し、世界的に運賃、傭船料、船価が高騰し海運業界は未曾有の好況時代に突入したが、播磨造船は規模が小さく、また当地の事業家達はこれらの情勢に対する積極的計画を持たなかったためこの空前の造船ブームという好機を生かすことができず、経営はますます困難となり事業の前途は絶望的な状況にあった。

播磨造船所の歴史②

  • 唐端清太郎
  • 播磨船渠合名会社の「船渠」(明治45年頃)

    村人は「わしらのドック」と呼んだ

  • 大正3年頃の造船所(播磨造船株式会社)

TOP