⑪旧社宅と商店街

播磨造船所が作った新しい町

鈴木商店による播磨造船所の拡張によって、従業員は200名から6000名に増加した。そのうち半数以上は、長崎・呉など他の町からの移住であった。造船所は従業員の定着を図るため、相生の各地に社宅を造った。なかでも、薮谷は最も大規模な社宅街で、一小学校区にあたる社宅街が出現した。

青春時代を相生で過ごした佐多稲子は小説「素足の娘」で、社宅の建設をこのように描いている。
「そういう計画は、造船所の一つをもとにまるで町をでも造るほどの意気込みに見えた。・・・ 何もなかったところに新しく町の出来てゆく過程は、不思議みたいであった」

播磨造船所は、社宅の中央にある通りに売店組合を設け、テナントを募集した。配給所ではなく、商人を募集して商店街を育成しようとしたところに、商社であった鈴木商店の社宅らしさがあるのかも知れない。

大正9(1920)年、船鉄交換船「EASTERN SOLDIER」進水式の日、町には各地に進水を祝うゲートが設置された。本町売店組合からスタートした「ほんまち商店街」は、播磨造船所の盛衰とともに盛衰をくり返し、高度経済成長期には相生を代表する繁華街となった。

社宅の責任者であった北村徳太郎は「幹部社員・職工の区別なく、誰でも家賃さえ支払えばどの社宅に住むこともできる」という平等の原則を掲げたが、実際には給与に応じた社宅を選ぶことになったらしい。

昭和32年に播磨造船所の本社が東京に移るまで、相生は社長から工員までの多くが社宅に住み、住民の大半が造船所と何らかの関係を有して生きるという典型的な企業城下町であった。

  • 大正7年頃 建設直後の薮谷社宅
  • 大正9年 薮谷社宅の本町売店組合
  • ほんまち商店街を行くペーロンのパレード

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