鈴木商店こぼれ話シリーズ③「東京ステーションホテル20号室と金子直吉」をご紹介します。

2017.2.23.

東京ステーションホテル20号室.jpg東京ステーションホテルは大正4(1915)年、客室数58室にて創業。ホテル部分の駅舎建物は赤レンガ造りで著名な建築家・辰野金吾の設計による。開業当初より築地精養軒に営業を委託していたが、関東大震災の影響から築地精養軒の経営が悪化したため昭和8(1933)年、鉄道省直営となり「東京鉄道ホテル」の名称に変更された。終戦後、経営を日本交通公社に委託した後、昭和25(1950)年再び「東京ステーションホテル」の名称に戻り、現在はJR東日本ホテルズの経営により運営されている。(画像左は大正6(1917)年当時の20号室、右は平成24(2012)年リニューアルオープンしたスイートルーム)

鈴木商店の業容が拡大するに伴い、金子直吉は東奔西走する日々が多くなり、頻繁に上京するようになる。「東京ステーションホテル物語」の著者・種村直樹によれば、金子が東京ステーションホテルを根城として年間契約で借り切っていた期間は、同ホテル開業直後の大正4(1915)年から金融恐慌で鈴木が破綻する昭和2(1927)年までの12年間に及んだと推定する。

二間続きのスイートルーム20号室を定宿とし、ここを前線基地として金光庸夫、長崎英造をはじめ鈴木商店幹部との作戦会議を開き、自らも飛び回るのが常であった。さらに一時期には、井上準之助日銀総裁、松方幸次郎川崎造船所社長などが出入りし、政財界のサロンのような状況だったといわれる。

金子は、東京駅に着きホテルにチェックインするや、まるで疾風のごとく関係先を飛び回っていたが、金子はホテルの従業員にも気配りを欠かさなかった。永年にわたる顧客でもあり、当時の従業員は、顧客ナンバーワンに金子の名をあげたといわれる。

時間をむだにしないため金子が神戸に戻るのは決まって夜行列車で、京都で朝を迎え、大阪に着くと大阪支店の社員から書類を受け取り、神戸に到着するまで目を通す。神戸の鈴木商店に着くや事務を片付けて脇の浜の神戸製鋼所や化学研究所を回り、夕方の列車で下関に向かう。翌朝、大里に着き大里製粉所、桜麦酒(元の帝国麦酒)、彦島の亜鉛製錬所等に顔を出し、夕方には上り列車で神戸に向かう。時には神戸に一時下車し、再び東京に向かうこともあったようだ。なんとも凄まじいほどのモーレツビジネスマンであった。

多忙な合間に、金子が秘書役をしていた住田正一(後の呉造船所社長)に語った経済観を金子名義の唯一の著書「経済野話」(大正13(1924)年 巌松堂書店)として口述筆記にまとめたのは、東京ステーションホテル20号室であった。

鈴木が窮地に陥り、企業救済のための法案成立を求めて、金子を始め藤田謙一、長崎英造、竹村房吉等の幹部が政界への工作を必死に試みたのも同じ20号室であったが、昭和2(1927)年、鈴木の破綻が決定的となり永年住み慣れた東京ステーションホテルをついに最後のチェックアウトすることになった。

金子直吉の句集「片水句集」には、"十余年の春秋を過ごしたる此のホテルの20号室を立ち去るに臨みて"として下記の句を残している。

 ○落人の身を窄め行(く)時雨哉

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