神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第11回をご紹介します。

2016.8.1.

mojibiirurengakan1.PNG神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ(11)北九州に製糖工場 創業4年 事業売却で巨利」が、7月31日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事では、鈴木商店が初の大規模臨海工場として建設した大里(だいり)製糖所の設立経緯、金子直吉が創業から4年後に同製糖所を売却し巨利を得ること、その後も大里製粉所(現・日本製粉)、大里酒精製造所(後・日本酒類醸造、現・ニッカウヰスキー門司工場)、帝国麦酒(後・桜麦酒、現・サッポロビール)などを設立して大里を西の一大拠点とする一方、重化学工業の発展を目指して新たな投資を始めるくだりなどが描かれています。

冒頭の写真は、北九州市門司麦酒煉瓦館(旧・帝国麦酒事務所)(左)と旧・サッポロビール九州工場醸造棟(旧・帝国麦酒醸造棟)(右)です。

大里製糖所
明治初期の大里地区(当時は福岡県企救郡柳ヶ浦村)は塩田の広がる小さな漁村でしたが、福岡県知事・安場(やすば)保和(やすかず)の働きかけにより、明治22(1889)年に門司港が開港。明治24(1891)年には門司駅(現門司港駅)が開業し、大手財閥を中心に多くの企業が競って進出しました。

折しも鈴木商店は、当時関西の糖業界を牛耳っていた大阪の日本精糖(明治30年設立)の、糖業者の利益を壟断(ろうだん)するという横暴な振る舞いに対抗するなどの理由から、製糖工場の建設適地を模索していました。金子直吉は官営製鉄所の最終候補地ともなった大里が良質な水、豊富な石炭と労働力、そして交通の面で利点があることに着目します。

当初民間企業による製糖事業への進出は無謀ともいわれましたが、勝算ありと目論んだ金子は明治36年(1903)年、鈴木商店が三分の二、カネ辰藤田商店(店主・藤田助七)が三分の一を出資する形で、製糖工場としては日本初の大規模臨海工場といえる大里製糖所(現・関門製糖)を設立します。鈴木商店が本格的に生産部門へ進出したのがこの大里製糖所でした。

dairiseitousyo5.PNG上の写真は、明治40年当時の大里製糖所(左)と当時の煉瓦造りの建物をそのまま使用している現在の関門製糖(旧・大里製糖所)(右)です。「煉瓦一枚を馬蹄(ばてい)銀一枚に交換するのだ」と金子に言わしめたこの製糖所は、はたして翌年には45万円(当時)の純益を出してたちまちにして大日本製糖(明治39年、日本精糖と日本精製糖が合併)を圧倒し、大日本製糖は降参する形で鈴木商店に大里製糖所との合併の話を持ちかけます。これに対し、鈴木商店はこの合併には応じず、買収に応じる形で決着をはかります。

明治40(1907)年、鈴木商店は250万円の資本を投じて設立した大里製糖所を大日本製糖に650万円で売却し、差し引き約400万円もの資金を手にするとともに、北海道、九州、山陽、山陰、朝鮮の一手販売権を取得します。鈴木商店はこの巨額の資金を元手にして、大里の地に一大工場群を建設することとなり、またこの資金の一部は神戸製鋼所の設備資金にも振り向けられ、鈴木商店の重工業化が加速するきっかけとなりました。

その後、大日本製糖は合併を経て平成8(1996)年に大日本明治製糖となり、平成13(2001)年には大日本明治製糖と日本甜菜(てんさい)製糖の共同受託会社として関門製糖に社名変更されましたが大里製糖所当時の煉瓦造りの工場は今も稼働を続けており、原料用倉庫も当時の煉瓦造りの建物がそのまま使用されています。

大里製糖所設立後、大里地区には明治後期から大正初期にかけて、大里倉庫(明治37年)、再製塩工場(明治43年)、大里製粉所(現・日本製粉)(明治44年)、帝国麦酒(現・サッポロビール)(明治45年)、大里硝子製造所(大正2年)、大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)(大正3年)、日本冶金(現・東邦金属)(大正4年)、大里精米所(大正4年)、神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ)(大正6年)など鈴木系企業の工場等が次々に進出し、一大工場団地を形成していきました。

一方、対岸の彦島・下関地区においても同様に鈴木商店直営の亜鉛製錬工場(後・日本金属彦島製錬所、現・彦島製錬)(大正4年)をはじめ、大日本塩業分工場(大正5年頃)、(おき)見初(みぞめ)炭鉱(大正5年)、関門窯業(大正6年)、彦島坩堝(るつぼ)(現・日新リフラテック)(大正7年)、帝国炭業(大正8年)など鈴木系企業が相次いで進出して工場団地を形成し、大正5(1916)年の福岡日日新聞には関門海峡は鈴木の王国として紹介されています。

大里製粉所(現・日本製粉)
鈴木商店の製粉事業は明治39(1906)年の東亜製粉の設立から始まり、明治42(1909)年に官営札幌製粉所を前身とする札幌製粉(明治35年設立)を買収し、明治44(1911)年には大里製粉所を設立して事業を拡大し、先発大手に対抗する新興勢力となりました。大里製粉所はスーパー技師長・米田龍平(ドラゴン・ヨネダの名で知られる)の下で「赤ダイヤ」、「緑ダイヤ」としてブランド化に成功し、業績向上に大いに貢献しました。

さらに、大正9(1920)年には札幌製粉、大里製粉所と、また大正14(1925)年には東亜製粉と先発の日本製粉(明治29年設立)との合併を実現した鈴木商店は、原料納入・販売権を獲得するとともに、日本製粉の株主としても経営関与を強めました。当時の日本製粉は、日本の製粉界を日清製粉と二分する規模になっていました。

nihonnseihunmojikloujyou4.PNG上の写真は、解体される前の日本製粉門司工場(旧・大里製粉所)の姿です。(現在は解体されて、建物は存在していません)

日本製粉は、第一次世界大戦終結後の景気後退の影響を受けて経営危機に陥ったことから、金子直吉は日清製粉との合併を画策しますが、土壇場で日清側からの合併拒否によって交渉は不調に終わります。結局、台湾銀行を通じて日本製粉、鈴木商店両社に救済融資が実行され急場を凌ぎますが、この過程において鈴木商店の経営悪化が明るみになります。日本製粉の再建は鈴木商店が昭和2(1927)年に破綻したことにより暗礁に乗り上げ、以後、日本製粉は三井物産の支援を受けることとなり、独自の歩みを踏み出します。

平成に入ると、日本製粉は九州地区の製粉工場の集約化を図り平成9(1997)年、門司工場は廃止され、大里における86年の製粉事業の歴史に幕を下ろしました。

帝国麦酒(後・桜麦酒、現・サッポロビール)
明治末期、門司の実業家により地元にビール工場建設の計画が立てられましたが資金難から頓挫し、鈴木商店に支援を求めました。帝国麦酒は明治45(1912)年、九州最初の本格的ビール会社として鈴木商店の支援の下設立されました。

「サクラビール」のブランドで出荷されたビールは、その後第一次世界大戦により本場の欧州が戦場となったことからビールの輸入が途絶えたこともあり、鈴木商店のネットワークによって国内のみならず中国大陸や東南アジアを始め世界各国に輸出されました。サクラビールの発売に際しては、金子直吉、柳田富士松の鈴木商店両幹部自ら営業の第一線に立って陣頭指揮したといいます。

昭和2(1927)年に鈴木商店が破綻した後、帝国麦酒は昭和4(1929)年に社名をブランド名である桜麦酒に変更するとともに経営の危機を乗り越え、桜麦酒は先発の大日本麦酒、麒麟麦酒に次ぐ第3位のシェア(約1割)を有するビール会社としてサクラビールを約30年にわたって販売し、人々に親しまれました。

昭和18(1943)年、桜麦酒は大日本麦酒に統合され、同社の門司工場となり終戦を迎えます。昭和24(1949)年、大日本麦酒は日本麦酒と朝日麦酒に分割され、門司工場は日本麦酒傘下となりました。昭和39(1964)年、日本麦酒はサッポロビールに社名変更し、同社の門司工場として稼働しましたが、新工場への移転に伴い昭和62(1987)年に稼働を停止しました。

mojibiirurengakannnaibu.PNG大正2(1913)年4月に竣工した帝国麦酒事務所は、現在「北九州門司麦酒煉瓦館」として九州唯一のビール資料館として鈴木商店時代からの創業の歴史などが展示されています。(左の写真)

同年に竣工し地域のシンボル的存在ともなっている旧・サッポロビール九州工場醸造棟(旧・帝国麦酒醸造棟)には、大正時代に使用された醸造施設の一部が遺されています。





大里酒精製造所(後・日本酒類醸造、現・ニッカウヰスキー門司工場)
鈴木商店は大正3(1914)年、帝国麦酒と近い位置にあった保税仮倉庫の敷地に焼酎工場として大里酒精製造所を設立します。隣接する大日本製糖、大里製粉所、帝国麦酒から朝鮮・中国向け焼酎醸造のための発酵原料(糖蜜、フスマ、ビール酵母)を容易に調達できたことが大きな利点でした。

大里酒精製造所は大正6(1917)年、同業3社を吸収し日本酒類醸造に改組し、大正14(1925)年には同業3社と合併して大日本酒類醸造と改称。昭和に入ってからも数度合併を繰り返し、昭和35(1960)年には協和発酵工業の門司工場となり、北九州最大の焼酎製造工場として長く地域に親しまれました。

nikkauisukiimojikoujyou3.PNG上の写真は、ニッカウヰスキー門司工場の倉庫(旧・大里製粉所倉庫)です。平成14(2002)年、協和発酵工業はアサヒビールと合弁でアサヒ協和酒類製造を設立し、門司工場はアサヒビールグループの焼酎乙類の主力工場として運営されました。平成18(2006)年にはグループ再編によってニッカウヰスキーの門司工場となり、同社最古の煉瓦造りの工場として現在も稼働を続けています。

明治44(1911)年に設立された大里製粉所(現・日本製粉)は、大正4(1915)年に火災に見舞われ、工場1棟、倉庫2棟を焼失。復旧工事を急ぎ、工場は翌年再開しましたが、その際新たに建設された倉庫が、今もニッカウヰスキー門司工場の倉庫として活用されています。

現在も大里地区には鈴木商店当時の煉瓦造りの建造物が多く残されており、門司赤煉瓦プレース施設群(*)、ニッカウヰスキー門司工場(旧・大里製粉所倉庫)、関門製糖工場棟(旧・大里製糖所工場)などその多くが近代化産業遺産として経済産業大臣の認定を受け、多くの人々に親しまれています。
(*)北九州市門司麦酒煉瓦館(旧・帝国麦酒事務所)、旧・サッポロビール九州工場醸造棟(旧・帝国麦酒醸造棟)、赤煉瓦写真館(旧・変電所)、赤煉瓦交流館(旧・倉庫)で構成され、いずれも国の有形文化財に登録されています。

◆大里地区については、次のサイトから北九州市門司区役所作成による「大里地区ガイドマップ」をご覧いただくことができます。

北九州市門司区役所「大里地区ガイドマップ」

下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。

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