永井幸太郎

永井・高畑の学卒派コンビにより鈴木破綻を乗り越え、新生「日商」丸を漕ぎ出す

生年 明治20(1887)年
没年 昭和58(1983)年

高畑誠一に「世界を相手に一緒に働こう」と誘われて鈴木商店に入社。高畑とは神戸高商(現・神戸大学)のクラスメートでともに明治42(1909)年卒業したが、永井は当初スタンダード石油に勤務していた。鈴木に入社していた高畑の強い誘いにより半年遅れて入社、永井・高畑と並び称される「鈴木・学卒派」のコンビが誕生した。

同僚の高畑がまもなくロンドン支店に赴任し、鈴木を世界的な商社に羽ばたかせる原動力となった一方、永井も神戸の本店で着実に実績を積み、公平な洞察力と沈着な行動によって社内外の信頼を集めるようになった。

本店穀肥主任(部長職)として主力商品の「米」の取扱い責任者であった永井は、思わぬ事件に巻き込まれた。大正7(1918)年、米騒動における鈴木本店焼き討ち事件で、永井は世間への誤解を解くため「米価問題と鈴木商店」という論文を発表、鈴木商店にとって不可欠な人材となった。

しかし、大正13(1924)年、永井は取締役本店総支配人から、大阪支店の中にあった「日本商業」へ出向を命じられた。このため、戦線を広げすぎワンマン経営を続ける金子直吉に直言できる機会を逸したことが鈴木の破綻を防げなかった原因の一つかも知れない。

昭和3(1928)年日商(後の日商岩井、現・双日)設立に尽くし、昭和20(1945)年社長。昭和22(1947)年商工省貿易庁長官となり社長を辞任、昭和24(1949)年社長に復帰。昭和32(1957)年日本発条社長。

昭和22(1947)年から昭和32(1957)年まで甲南学園理事長を務め、青少年の教育に情熱を傾けた。昭和58(1983)年1月23日95歳で死去。兵庫県出身。

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