鈴木商店こぼれ話シリーズ (57)「鈴木商店の造船事業の出発点"備後船渠"」をご紹介します。

2026.3.10.

 スクリーンショット (282).jpg備後船渠史跡.jpg明治40(1907)年6月、鈴木商店は広島県御調(みつぎ)郡三庄(みつのしょう)村(現在の尾道市因島三庄町)にある「備後船渠(株)」を買収した。。鈴木商店の一大造船事業となる兵庫県相生の播磨造船の買収(大正5(1916)年)に先立ち鈴木商店が造船事業に乗り出す最初のステップだった。

 備後船渠は明治33(1900)年、三庄村有志により設立された「三庄船渠(合)」(資本金3,000円)が前身、翌明治34(1901)年6月、株式会社に改組し資本金150,000円の「備後船渠(株)」として再スタートを切った。さらに明治36(1903)年8月、地元実業家で銀行家の西宗元次郎が社長に就任し積極経営に乗り出した。日露戦争当時には、軍用船の修繕受注に活況を呈した。(写真は、備後船渠史跡(昭和45年2月1日建立))

 さらに明治40年には、船渠(ドック)増設等事業を拡大するも戦争終結後は一転して不況に陥り、同年6月社長兼大株主の西宗氏は、持ち株の大部分を鈴木商店に譲り渡し、鈴木商店が経営するところとなった。

 備後船渠が誕生した明治30年代は、日本の造船技術が北前船に代表される和船(木造船)から鉄造船へと大きく移行した時代で、備後船渠においても鉄を使った船の建造や修理が始まったと考えられる。

 折しも明治後期、チャーター船による自社輸送に乗り出した鈴木商店は不定期船の傭船から自社船所有に切り替え、やがて海運から造船に乗り出すのは必然だった。こうした時期に備後船渠の買収は自然の成り行きだったと思われる。

 買収当時の備後船渠の生産能力は、修繕船約20万トン、新造船1,000トンから2,000トン型汽船4隻程度建造するほど、職工数も300人程度の規模であったが、鈴木の経営により大正6(1917)年当時には、海岸埋め立て、船台の増設、工場の拡張により建造中の鉄船1,000トン型2隻、小型船4隻あり、さらに大型鉄船の建造&修繕を計画し、職工は1,400名を擁する規模に発展。(鈴木商店調査書)

 スクリーンショット (386).jpg備後船渠役員.jpg新生・備後船渠の経営陣には、鈴木商店は小杉辰三(取締役社長)、松尾忠二郎(専務取締役)、田宮嘉右衛門(取締役)、依岡省輔(監査役)を送り込んだ。こうして備後船渠は、順調な滑り出しを果たしたが、大正8(1919)年同社は大阪鉄工所(後の日立造船)に売却された。

 同時期大正5(1916)年、兵庫県相生の播磨造船の再建を懇請された鈴木商店は、同社の買収を決定し、播磨造船所を設立することから、備後船渠の経営を断念し、播磨造船所の拡張に注力する方針となったもの。また、備後船渠の経営陣のうちの三上英果(みかみ ひでみ)(取締役兼船体部主任技師)は、播磨造船所の技師長(後に取締役工場長)に起用された。

 

 

 

 

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