帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ㉗「株式会社第六十五銀行」(調査書P140~146)をご紹介します。

2026.3.25.

「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの27回目です。

hujitasukeshit2.png明治初期の日本は通貨制度の不安定さが経済発展の妨げとなっていたため、明治政府は「太政官札」を発行して通貨の流通を目指しました。しかし、この紙幣は不換紙幣(金との交換ができない紙幣)であったため十分に流通しませんでした。

明治政府はこの事態を打開すべく兌換紙幣(金との交換が自由にできる紙幣)を民間銀行に発行させるため、明治5(1872)年に「国立銀行条例」を制定しました。しかし、兌換義務が厳しい条件であったため実際に設立された国立銀行は4行(第一、第二、第四、第五)にとどまりました。

そこで、明治政府は明治9(1876)年に国立銀行条例を改正して兌換義務を廃止し、不換紙幣の発行を認めるとともに資本金の構成要件を緩和ました。これにより国立銀行の設立は一気に進み、その数は153行にまで達しました。

※国立銀行は官営ではなくあくまでも民営の銀行でしたが、国立銀行券の発行が許可されていたことが"私立銀行"(普通銀行、貯蓄銀行、農工銀行等)との大きな違いでした。

鳥取県では明治11(1878)年11月に第八十二国立銀行とともに「第六十五国立銀行」の設立が許可されました。しかし、第六十五国立銀行は規模、資本金等において第八十二国立銀行を大きく下回り、開業(明治12年1月4日)以来営業成績は芳しくありませんでした。このため、明治13(1880)年頃から兵庫(神戸)への移転計画が進められ明治15(1882)年7月に移転しました。

(注)「鈴木商店調査書」の冒頭に記されている "設立 明治31年1月" は第六十五国立銀行が「国立銀行営業満期前特別処分法」に基づき私立銀行に転換し「株式会社第六十五銀行」に改称した時に当たります。

rokujyuugoginnkou2.png「銀行総覧第32回/大蔵省銀行局編」によると同行の設立日(鈴木商店が同行の経営に直接関与した日)は明治30(1897)年9月22日です。(所在地:神戸市戸場町 [現・神戸市兵庫区本町] 。鈴木商店とルーツを同じくするカネ辰藤田商店の店主・藤田助七が頭取に就任)(冒頭の写真は藤田助七です)

第六十五銀行 は兵庫(神戸)に移転しましたが「鈴木商店調査書」の "沿革 現状" に記述のとおり、大正元年末に横浜正金銀行神戸支店より堺力蔵に対する保証債務の弁済請求を受けて苦境に陥ります。

この時同行は鈴木商店に援助を求め、鈴木商店の主張を容れて減資、積立金、滞貨準備金、前記繰越金により整理を断行することにより立ち直ることが出来ました。(右の写真は大正11年頃の第六十五銀行です)

一方、金子直吉率いる鈴木商店は大正3(1914)年に欧州で勃発した第一次世界大戦を絶好の商機と捉えて急成長を遂げ、大正6(1917)年の同社の貿易年商は当時のGNPの1割に匹敵し、日本一の総合商社となりました。

しかし、大正7(1918)年に大戦が終結すると一転して反動不況の嵐が吹き荒れ、鈴木商店が受けた打撃は成長が急であっただけに甚大で、業績は悪化の一途を辿り始めます。鈴木商店はあらゆる打開策を講じますが、大正12(1923)年に関東大震災が発生すると財務内容はさらに悪化。資金繰りは極度に逼迫して金融機関からの借入も増加の一途を辿りました。

taiwanginkou.jpg当時、鈴木商店の主力銀行は台湾銀行であり、反動不況が本格化する大正10(1921)年頃(台湾銀行第4代頭取・中川小十郎の副頭取時代)から鈴木商店に対する融資が急増し、鈴木商店と台湾銀行は運命共同体ともいうべき歩みが本格化していきました。(左の画像は創業時の台湾銀行本店です)

大正13(1924)年度末時点の鈴木商店(株式会社鈴木商店と鈴木合名会社)の借入金総額は3億9,620万円でしたが、その内台湾銀行からの借入は約2億4,680万円(全体の62%)にも上り、準主力行の横浜正金銀行の4,770万円(同12%)、第3位の藤本ビルブローカー銀行の1,900万円(同4.8%)を大きく引き離していました。一方、系列の第六十五銀行からの借入は320万円(同0.8%)に過ぎませんでした。(武田晴人著「鈴木商店の経営破綻」より)

鈴木商店は昭和2(1927)年に起った昭和金融恐慌の最中の同年3月27日に、鈴木との取引絶縁を断行せざるを得なくなった台湾銀行より融資打切の最後通告を受けます。この時、規模が小さい第六十五銀行には到底鈴木商店を支える体力はなく、鈴木商店は同年4月2日に営業停止となり破綻しました。

第六十五銀行も、反動不況の影響を真面に受けて大口貸出先の営業不振に伴う多額の不良債権を抱え、また他の銀行の "取り付け" (*)の影響を受けて同行も多額の預金引き出しを余儀なくされました。なお、同行は大正8(1919)年頃より形式上は鈴木商店との関係を絶ちましたが、実際には鈴木商店および関係会社への融資は継続していました。

(*)"取り付け" とは、恐慌などで経済不安が生じた時に、信用を失った銀行に対し預金者が預金の払い戻しを求めて殺到する状態を言います。

torituke.png昭和2(1927)年3月に昭和金融恐慌の第一波が訪れ、第六十五銀行は鈴木商店の営業停止の報が伝わるや激烈な "取り付け" に襲われ、同年4月8日より休業を余儀なくされました。(右の写真は昭和金融恐慌下での "取り付け騒ぎ" の様子です)

同行は5月12日より営業を再開するとともに鋭意整理を断行しましたが、休業により信用を失墜したこと、整理後も多額の不良貸付を残していたこと等により営業再開後も預金の引き出しが終息せず預金が激減したこと、日銀震災手形割引損失補償令による特別融資額はますます増加し、他方貸出金の回収は進まず、業況は悪化の一途を辿っていたことから、同行の経営陣はついに他の有力銀行に合同する外に良策はないと判断しました。

結局、第六十五銀行は神戸市の神戸岡崎銀行に合同(実質的には営業譲渡)することとなり、両行で合同実行日を昭和3(1928)年10月22日とする合同契約書を締結しました。なお、この時の第六十五銀行の頭取は藤田助七の養子・藤田毅でした。

その後、神戸岡崎銀行は昭和11(1936)年に五十六銀行、三十八銀行など6行と大合同して神戸銀行となり、続いて合併により太陽神戸銀行(1973年)、太陽神戸三井銀行(1990年)と変遷。同行は平成4(1992)年にさくら銀行と改称し、平成13(2001)年に住友銀行と合併して三井住友銀行と改称し今日に至っています。

第六十五国立銀行設立の経緯、経営危機に陥った時に鈴木商店に援助を求め立ち直った経緯等については下記関連資料の「株式会社第六十五銀行」の翻刻および現代語訳をご覧下さい。

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