山本条太郎
財界、政界の両方面に目覚ましい活躍、取り分け事業家としてあらゆる方面で辣腕を発揮

生年 慶応3年10月11日(1867年11月6日)
没年 昭和11(1936)年3月25日
越前国福井城下(現在の福井市)生まれ。福井藩士の長男として生まれるも出生後、廃藩となったため一家で上京。共立学校(開成中学校、高等学校の前身)中退後、15歳で三井物産横浜支店に就職、上海支店、大阪支店勤務を経て47歳の時、シーメンス事件に連座したとして常務取締役を最後に退社。
その後は事業家として再出発し多くの会社の社長、役員を務めた。火薬、染料、医薬品等化学工業、鉱山事業、電力事業、繊維工業、南洋の事業等々多種多様な事業の経営に携わった。
取り分け、大正5(1916)年鈴木商店の金子直吉、横浜の生糸商社・茂木商店三代目茂木惣兵衛と共にわが国初の産業用火薬メーカー”日本火薬製造(株)”を設立したのは、国力を高めたいという山本の強い思いからであった。
大正9(1920)年、山本は政界に進出するも事業経営にも関わり、大正11(1922)年には、日本火薬製造の第二代社長に就任し、産業振興により国富増強を目指す”事業経営信念”を掲げた。
山本は、大正9年の衆議院議員総選挙に福井一区から政友会より立候補し初当選、以後4選したほか政友会の要職に就いた。
その後昭和2(1927)年~昭和4(1929)年まで南満州鉄道(満鉄)の社長に就任し、満鉄の改革を推進、数々の成果を残し”満鉄中興の祖”と称えられている。
満鉄は、山本が社長在任中の昭和4(1929)年、鈴木商店系の旭石油・徳山工場を買収し、満鉄100%出資の”日本精蝋(株)”を設立、石油系ワックス専門メーカーとしてスタートしたのは、山本のパラフィンワックスの国産化により外貨の節約に寄与するという一貫した国富増強の信念による。
旭石油・徳山工場の買収は、日本火薬製造設立以来、鈴木商店・金子直吉との信頼関係が大きな要因と思われる。